第6話:竹の音を聞かなかった猿 〜ふく翁の記憶書庫(寓話)〜

jinsei-shippitsu

【1】風の止まった昼さがり

その日の森は、めずらしく風ひとつ吹いていなかった。

葉も、枝も、草の先さえも、
どこか張りつめたように静まり返っている。

ミミは耳をぴんと立てたまま、きょろきょろと森を見渡した。

ミミ
ミミ

なんだか…
今日は森の音が、ちょっと違う気がする…

ホップは、そんなミミの横で木の実を蹴りながら跳ねている。

ホップ
ホップ

えー?
いつもと一緒だよ!
ほら、今日も遊びに行こうよ!

ムアは、木の根元に背中を預け、本をひらいたまま空を見上げた。

ムア
ムア

風速も匂いも普段と大差ないな。
気のせいなんじゃないか?

ミミは小さく首を振る。

ミミ
ミミ

ううん…
音の“間(ま)”が、いつもと違う気がするの…

そのときだった。

カサ… コト…

森の奥で、竹がかすかにきしむような音がした。

三人が顔を上げたちょうどそのとき、
おなじみの、ゆっくりとした足音も近づいてきた。

ふく翁が、小さなランプとノートをぶら下げて歩いてくる。

フクオウ
フクオウ

ほっほ、今日はよう静かな森じゃのう。

ホップはすぐに駆け寄り、目を輝かせる。

ホップ
ホップ

あっ、ふくおうじいちゃん!
ねえねえ、今日もなんか“お話”ある?

ミミも、少しほっとした顔でぺこりと頭を下げる。

ミミ
ミミ

ふくおうじいさま…
あの、今日は森の音が、
いつもとちょっと違う気がして…

ふく翁は竹のほうを見やり、ゆっくり言った。

フクオウ
フクオウ

この音を聞くと、思い出す話があってのう。
“昔、とある森で聞いた”猿のお話じゃ。
前ぶれというものが、どれほど大事かを教えてくれる。

三人は顔を見合わせ、ふく翁と一緒に記憶書庫へ向かった。

【2】記憶書庫と、ラオスの本

ふく翁は棚の奥から、一冊の古い本を取り出した。
背表紙には、細い文字でこう記されている。

「名もなき竹林の寓話」

ふく翁はそっとページをひらいた。

フクオウ
フクオウ

これはな、わしが旅の途中、
“どこの森とも知れぬところで聞いた話”を書き留めたものじゃ。
語り継いだ者がおるだけで、出どころすら誰も知らん。
じゃが、心に残る、よき教えがある。

ふく翁はそっとページをひらいた。

【3】竹の音を聞かなかった猿(記憶書庫オリジナル寓話)

むかし、深い深い竹林のそばに、
一匹の猿が住んでいました。

その竹林では、風が吹くたびに
「サラサラ」「コトコト」と優しい音が鳴ります。

猿はその音が大好きで、
朝はその音とともに目覚め、
昼は子守唄にして眠り、
夜は黒い竹の影を眺めながら寝床につきました。

竹の音は猿にとって、
“いつもの音”であり、
“安心のしるし”でした。

ところがある日、
静かな昼下がりに、竹がふと違う音を立てたのです。

「ミシ… ミシ…」

まるで、竹が体をこわばらせるような音でした。

猿は一瞬耳を動かしましたが、すぐに笑いました。

「竹の音なんて、その日その日で気まぐれだろうさ。
気のせい、気のせい」

そのとき、近くを通りかかった鳥が羽ばたきを止めました。

「この音…何かの前ぶれかもしれない。
高い木に避難したほうがいい」

そう言って、鳥はすぐに竹林を離れました。

けれど、猿は腰を下ろしたまま動きません。

「大げさなやつだなぁ。
雨だって、まだ一粒も落ちてきてないのに」

それからしばらくして、
竹の音は「ミシ…ミシ…」から「ギギ…ギ…」と変わっていきました。

空の色は鈍くにごり、
遠くで雷のような音が、ごろ…ごろ…と鳴りました。

猿はちらりと空を見上げましたが、
「まだ大丈夫さ」と言って動かない。

その夜――
嵐がやってきました。

風が野をなぎ倒し、
雨が地面をたたき、
竹が一本、また一本と折れていきました。

猿はようやく、昼に聞こえたあの“かすかな音”を思い出します。

「あれは…“知らせ”だったのか…」

急いで逃げようとしましたが、
地面は泥で滑り、風で体があおられ、
猿はうまく動けません。

折れた竹が大きな音を立てて倒れたとき、
そのそばにいた猿の姿を見た者は、
誰一人いませんでした。

一方、
あのとき“かすかな音”に耳を澄ませた鳥たちは、
遠くの高い木の上で、静かに嵐の夜を越えていました。

竹林はずっと前から、
危険が近づいていることを伝えようとしていたのです。

【4】記憶書庫で

ふく翁が本を閉じると、
記憶書庫には静けさが落ちた。

ホップは小さな声で言った。

ホップ
ホップ

…竹ってさ、あんなふうに“知らせ”してくれるんだね。

ミミは、自分の胸に手を当ててつぶやいた。

ミミ
ミミ

わたし…
“なんか違う気がする”って思ったとき、
自分が心配性なだけだと思ってたけど…

ムアは腕を組んで、静かに言う。

ムア
ムア

証拠がならない違和感って、
切り捨てがちなんだよな。
でも、最初のサインって、案外こういうものかもしれない。

ふく翁は三匹を優しく見渡した。

フクオウ
フクオウ

ほっほ。竹だけではないのじゃ。
心にもまた、“かすかな音”がある。

フクオウ
フクオウ

「なんだか気になる」
「言葉にならんが、おかしい」
「いつもと違う」
…そういう小さな音や直感を聞ける者は、
大きな変化の前に、道を選び直せるんじゃよ。

外では、さっきよりも風が戻り、
竹が「コト…コト…」と静かに鳴っている。

三匹は、息をのんで聞き入る。

ホップは耳をすませながら言った。

ホップ
ホップ

じゃあさ…
誰かが“なんか変だな”って言ったら、
無視せずに一回聞いてみようよ。

ミミもうなずき、ムアもゆっくりとうなずいた。

森には今日も、
葉っぱの音と、竹の音と、
そして誰かの心の“かすかな音”が、静かに流れている。

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