偉人の人生

マクドナルドを創った男 <レイ・クロック> 〜信念と継続だけが全能である〜

jinsei-shippitsu

『レイ・クロック ── マクドナルドを創った男』

チェコ移民の息子として生まれたひとりの青年が、
52歳で世界を変える決断をした。
人生の半分を「失敗」と「迷い」に費やし、
残りの半分で「挑戦」と「創造」に燃えた男――レイ・クロック。

戦争、禁酒法、ジャズ・エイジ、大恐慌、
そしてマクドナルド兄弟との出会いと決別。
彼の歩んだ道は、20世紀アメリカ資本主義の縮図であり、
“遅咲きの起業家”が世界に残した希望の物語でもある。

「信念と継続だけが全能である」
──この言葉の重みを、今あらためて感じてほしい。

製本注文!1980円(税込)

第1部 ライフステージ編 <人生の歩みと時代背景>

第1章 1902年── 移民の夢と戦争の時代 
---出生~少年期---      1902~1917年頃

 レイ・クロックは1902年10月5日、イリノイ州オークパークでチェコ系移民の両親のもとに生まれた。弟と妹を持つ3人きょうだいの長男として育つ。父アロイスと母ローズは、アメリカに来れば未来は開けると信じていた。父は銀行員として働きながら、株や土地投機に挑んだ。

1920年代には一時的に成功を収めたものの、やがて1929年の株式市場の暴落で全てを失うことになる。
幼いクロックは、その背中から「アメリカンドリームの明と暗」を学び取っていた。

子どもの頃、彼はピアノを習い、音楽の世界に惹かれていた。母は息子を励まし、鍵盤に触れれば音楽があふれ出す。その旋律は、少年の心を大きく広げた。

だが音楽だけではない。レモネードスタンドを開き、ソーダファウンテンで働き、小遣いを稼ぐ。小さな取引でも自分の手でお金を得る喜びは格別だっただろう。

やがて第一次世界大戦の影が世界を覆う。
アメリカも参戦を決め、人々は戦地に送られていく。

クロックはじっとしていられなかった。
数年後学校を辞め、年齢を偽って赤十字の救急車運転手に志願したのだ。
まだ15歳だった。

ネチカット州ニューヘイブンの訓練所に入った少年は胸を高鳴らせた。
そこで出会ったのが、後にディズニー帝国を築くウォルト・ディズニーであった。二人は同じように未成年で、夢を追う気持ちに突き動かされていた。
結局戦争はまもなく終わり、前線に立つことはなかったが、彼らの心には確かな熱が残った。

訓練所では規律の厳しさと仲間との連帯を体で学んだ。
戦場に立てなかった悔しさはあったものの、無駄な時間ではなかった。むしろ、後にマクドナルドを築くうえで不可欠な「規律」と「現場感覚」の種が、この時に芽生えていたのである。

時代背景を振り返れば、アメリカでは禁酒法の動きが徐々に強まり、女性参政権の議論も盛り上がっていた。
街には自由と規律のせめぎ合いが漂い、ヨーロッパでは戦火が拡大していた。
移民の家に生まれたクロックにとって、それは希望と不安が交錯する時代であった。

音楽や小さな商売で「喜びを生み出す力」を知り、訓練所で「組織の力」を体感し、父の失敗から「富の儚さ」を学ぶ。

こうして過ごした幼少期の15年間は、のちのクロックの人生の原点となっていく。

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第2章 青年期:初期──営業とジャズ・エイジの空気 
---禁酒法・ジャズエイジ・紙コップ営業---1920年頃

第1次世界大戦が終わりを迎えた1918年、少年は兵士として戦場に立つことなく故郷に戻った。
まだ15歳の彼にとって、戦地に行けなかった悔しさは残ったが、その代わりに「規律と連帯」を学んだ。

戦争の幕が下りたアメリカは、ジャズの音が街に溢れ、女性のスカートが短くなり、人々の心は解放へと傾いていた。

禁酒法が1920年に施行されると、表向きは酒が消えたが、裏社会やスピークイージーはむしろ活況を呈し、社会は二重構造のような熱気を帯びた。
そうした時代に青年クロックは、自分の居場所を探して歩き出した。

*禁酒法(Prohibition)…1920~1933年にアメリカで施行されたアルコール製造・販売禁止法。アルコールが家庭崩壊や犯罪の原因になると考えられていたため、宗教的な道徳観や第一次世界大戦後の規律重視の空気があり施行に至った。
 
 しかし、合法的な酒は消えたが、密造酒や密売が横行し、ギャングやマフィアが暗黒街を支配。スピークイージー(秘密酒場)が全国に広が理、結果として犯罪は増加し、国民の大多数も反発。
 1933年、ルーズベルト大統領の下で禁酒法は廃止された。2025年現在は各州ごとに酒の販売規制はあるが、全国的な禁止法は存在しない。*

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この時代にクロックが心を傾けたのは「音楽」だった。
彼はピアノを続け、学校でも演奏の機会を得た。クラシックからラグタイム、ジャズへと移り変わる時代の流れの中で、鍵盤の音は彼にとって世界とつながる手段だった。

だが、音楽家として身を立てるには強い情熱だけでは足りない。生活の糧を得る術を、彼は模索せざるを得なかった。

次に選んだのは「営業」の世界。
紙コップの販売会社に入社し、セールスマンとして全米を歩く。
相手の目を見て話し、断られても笑顔を崩さず、何度も足を運ぶ。商談がまとまったときの達成感は、音楽の拍手とはまた違う昂揚感だっただろう。

ここで彼は「人と向き合い、信頼を得る」ことの意味を実地で学んだ。
のちにマクドナルドの加盟店を口説き落とすとき、この粘り強さが彼を大きく支えた。

青年クロックはまた、短期間ながら教師やラジオ関連の仕事にも携わった。
どれも長くは続かなかったが、音楽の経験と営業の経験が交わる場所を探し続けていた。

アメリカ社会は変化の真っ只中にあった。自動車の普及が街の景色を変え、フォード社のT型車が庶民の移動手段になっていた。
郊外に住宅が建ち並び、人々の暮らしは拡大していく。
電気の普及により、夜の街にはネオンが輝き、ジャズのリズムが鳴り響いた。

戦争を経験した世代は「もう後ろを振り返るまい」と言わんばかりに、明るさと速度を追い求めていたのだ。

その中でクロックは、一人の若者として迷いながらも、「勤勉さと商才を武器に生きる」ことを心に決めていく。

後年、彼は自伝で「音楽に惹かれたことも、セールスに熱中したことも、無駄ではなかった」と書いている。

青年期初期の7年間は、その力をどう育てるかを模索する試行錯誤の時代であり、人生の航路を定める前の助走だった。
この時代は「自由の奔流」と「不安の影」が入り交じっていた。

禁酒法の矛盾、ジャズエイジの熱狂、経済成長の期待。
すべてが交錯する中で、若きクロックは次第に「自分は大衆の欲求を形にする仕事に向いているのではないか」と感じ始めていたのかもしれない。

*ジャズ・エイジ(Jazz Age)…1920年代のアメリカを象徴する文化的呼称。第一次世界大戦後の明るさと解放を求める空気の中で、ラグタイムから発展したジャズが若者文化と融合して広まった。ラジオやレコード、映画の普及も後押しし、ジャズは大衆音楽として社会に浸透した。

 ダンスホールやスピークイージーではジャズが演奏され、ファッションも大胆に変化。女性はスカートを短くし、髪をボブカットにするなど、伝統的価値観からの解放を体現した。
 その後ジャズはスウィング、ビバップなど新しいスタイルへ発展し、2025年現在も「自由と革新の音楽」として世界で演奏され続けている。*

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第3章 青年期:中期──挫折と糸口  
---大恐慌と紙コップ営業---   1922~1932年頃

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