第25話:ムアと、正しすぎた答え〜『大智者ジャータカ』〜

jinsei-shippitsu

【前置き:『大智者ジャータカ』とは?】

この物語は、
古代インドの仏教説話集『ジャータカ(本生譚)』 に収められている
『大智者ジャータカ』
の寓話構造を参考にしています。

『ジャータカ』とは、ブッダが悟りを開く以前、
さまざまな人生を生きていたとされる前世の物語集です。
そこでは、人間だけでなく、動物や賢者の姿を通して
「正しさ」「知恵」「生き方」が語られてきました。

『大智者ジャータカ』 に登場する主人公は、並外れた智慧を持つ人物です。
彼の判断はいつも論理的で、公平で、間違いがありません。

しかし、その正しさは――

『大智者ジャータカ』
ページ下部へ

【1】森の集会所

昼過ぎの森の集会所に、いくつもの影が集まっていた。
鹿、狸、小鳥、そして年長者の年老いたクマ。

今日は、
商いの相談が持ち込まれ、商人たちが情報共有や意見を出し合う集会だ。

集まりには、
キツネの親子も立っている。

威厳ある鋭い眼光のキツネ――ムアの父、ヴァルダ。
その隣に、シュッとして落ち着いた佇まいの兄、ギル。
そして少し離れて、ムア。

ふく翁が進行を任されていた。

フクオウ
フクオウ

では、状況を聞かせてくだされ。

ふく翁が羽根ペンを置き、静かに言った。

年長者のクマが口を開く。
「長年取引してきた相手が、
急に値を吊り上げてきましてな……
取引は続けているんだがどうしたものか……」

周囲がざわつく。

【2】父と兄の読み

ムアの父が、年長者のクマに聞いた。
ヴァルダ:「それはいきなりですね。その相手、最近変わったことはなかったのですか?」

年長者のクマ:「娘が結婚前で入用ができたとか……
娘夫婦のために家も建ててやりたいとも言っておりましたな。」

ムアの父は目を細めた。
ヴァルダ:「あなた様と取引先の相手は長いこと取引をしているのですか?」

年長者のクマは誇らしげに言う。
「そりゃもう!わたしが若い頃に商いを始めてからの付き合いだ!一緒に苦労を分かちあった仲でもある!もう親友みたいなもんだな!」

ヴァルダ:「なるほど。それは素敵なご関係ですね。多くのご苦労を乗り越えて今があると。」

年長者のクマ:「まあな!ガハハハっ!」

隣ではムアの兄ギルが口を出さずに聞いている。
ギル:(……。原因は相手ではなく、この年長者のクマ殿にありそうだな。この取引は明らかにクマ殿が損だ。しかしそれをみんながいるこの場で指摘すると……。)

他の森の動物たちも熱心に聞いている。

【3】ムアの回答

そのとき、ムアが一歩前に出た。

「……数字で見れば」
場の空気が、わずかに張りつめる。

ムア
ムア

その条件はあなたに不利だ。
長期で見れば、確実に大きな損をする。

父のヴァルダが静かにムアに目を向ける。

ムアは続けた。

ムア
ムア

相手の事情は非常に私情的ですし、それを理由に価格を上げる前例を作れば、次も同じことが起きます。
他の取引先も上げてくるかもしれない。

ムアは止まらない。

ムア
ムア

合理的に考えるなら、条件の再交渉か、取引停止です。
別の取引先に変える選択肢もある。
商売をやるなら、感情ではなく、数字で見るべきです。

一切の無駄がなく、正論に思える。

だが――

【四】潰れた顔

クマの表情が、凍りついた。
年長者のクマ:「……つまり、わたしが、感情で判断していると?」

周囲の動物たちが、息を呑む。

ムアは言葉を選ばなかった。

ムア
ムア

私は現状を申し上げたまでです。
数字を見ていない。

……沈黙。

クマはうつむき、
しばらくして立ち上がった。

年長者のクマ:「もう、結構だ」

低い声だった。

「……今日は帰らせてもらう。」

【5】正しさの代償

夕方に集会は終わり、
動物たちは散っていった。

兄のギルが小さくため息を吐いた。
ギル:「はぁ……ムア、あのな……」

父のヴァルダが手を少しあげ、ギルの言葉を止めた。
そして、ムアに無表情で言う。

ヴァルダ:「お前がそう思うならそれでいい」

低く重圧的な声に
ムアは黙った。

ムア
ムア

……。

【6】夜の集会所と、ふく翁の語り

集会所に夜が落ちた。

集まっていた動物たちは帰り、数人と
集会の進行を任されていたふく翁は片付けをしていた。

ムアは一人で残ってふく翁の片付けを手伝っていた。

ふく翁がゆっくりと口を開いた。

フクオウ
フクオウ

ほっほ。
今日は、重たい空気の集会だったのう。

ムアは答えず、黙々と下を向いて作業をしている。

ふく翁は、ムアの隣で独り言のように語った。

フクオウ
フクオウ

南の国に、
「大智者」と呼ばれた者がおっての。

ムアは下を向いたままふく翁の話を聞く。


ページ上部

『大智者ジャータカ』

※以下は古代インドの仏教説話集『ジャータカ(本生譚)』 に収められている
『大智者ジャータカ』の寓話構造を参考にした著者による意訳(現代語訳)です。
原典のストーリー構造を保持したうえで、読みやすく再構成しています。

むかし、
生まれながらにして並外れた智慧を持つ者がいた。
人々は彼を「大智者」と呼んだ。

争いが起これば、
彼は迷いなく正しい裁きを示した。
国の道を誤りそうになれば、
彼は論理でそれを正した。

彼の答えは、
いつも正しかった。

だが、その正しさは――
王や家臣たちの間違いや誤りを、
あまりにも鮮やかに照らしてしまった。

やがて人々は、
こう思うようになる。

「彼は正しい。
だが、近くにいると居心地が悪い」

国は救われた。
だが、大智者の周りから、
人は少しずつ離れていった。

智慧は、人を救った。
しかし、
人の心までは救えなかった。

ページ上部


【8】言葉になった教訓

ふく翁は、語りを終えてから、
しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。

フクオウ
フクオウ

智慧は、人を救う。それは間違いない。

じゃがの……
人の感情を無視した智慧は、ときに
人を遠ざけるのじゃ。

ムアは、顔を上げなかった。

フクオウ
フクオウ

数字や論理の正しさで、道を示すことはできる。

だが、人の恥や見栄を守るとは限らんのじゃ。

ランプの火が、小さく揺れた。

【9】ムアの沈黙

ムアは、しばらく何も言わなかった。

帳簿の数字は正しい。
取引の継続は損だ。

ムア
ムア

……
(俺は、間違ってはいない……ただ)

ただ――
昼間のクマの背中が、
何度も脳裏をよぎる。

その先の言葉は、
まだ形にならなかった。

ふく翁は、
それ以上何も言わなかった。

教えは、すでに置かれていた。

【10】正しすぎた答えの、その先で

夜が更け、
森に朝の気配が戻りはじめる。

家に帰ってからムアは、
帳簿の数字を眺めながらずっと考えていた。

そして――
帳簿を閉じ、
ゆっくりと立ち上がった。

正しさは、武器にもなる。
しかし使い方を誤れば、仲間を失う刃にもなる。

ムアはまだ、
この刃をどう使うべきかを知らない。

だが、
一つ学んだことがある。

自分が正しいと思う合理的な答えを、
全員が正しいと思っているとは限らない。

――今のムアには「それがなぜか」までは、まだ分からない。

ふく翁−フクオウ−
ふく翁−フクオウ−
〜百歳以上の森の賢者〜
Profile
長年さまざまな動物たちの“人生の話”を聞き、本として残してきた語り部。 物語や人生には語り継ぐべき教訓があると信じている。 信念を同じくする “伝記作家” と出会い、 いまは一緒に「世界中の誰もが自分の歴史を残せるようにする」という取り組みを進めている。
プロフィールを読む
ふく翁から「あなたの人生への7つの問い」をプレゼント!
フクオウ
フクオウ

ほっほ。
おぬしの人生も聞かせてくれんか?

ページ上部

記事URLをコピーしました